赤川慎一(あかのしん)最高の時間でした。755からTV出演へ。見城さんの周りではとんでもないことが起こる。 11名の見城さん愛に溢れる方々。いつもと変わらぬ慈愛に満ちた見城さん。 鯖さんやこささんがおっしゃっていた通り、私共小さなファンにも真っ正面から向き合って声を掛けて頂けることが、見城さんの魅力であり魔力。 見城さんの至極の言葉に溢れた755を本にしようとするのが箕輪さん以外いないというのは、確かに日本の損失!
見城徹のトーク
トーク情報見城徹 見城徹見城徹 ↑ 丁度28年前に尾崎豊が逝った。1992年の4月25日もよく晴れた日だった。朝から外出して昼頃自宅に戻り、留守番電話のスイッチを起動した。当時は携帯電話はまだなかった。留守電の最初が尾崎の音楽プロデューサーのソニーミュージックの須藤晃君で「尾崎が亡くなりました」から始まっていた。その後は僕のコメントが欲しい物凄い数のメディアからの連絡が入っていた。留守電を聴くのを途中でやめて、須藤君に電話した。ダイヤルを押しながら外を眺めたのだろう。眩くて爽やかな4月末の光が不自然で、その日差しだけを強烈に覚えている。
最後に須藤君が言った。
「見城さんと僕にしか解らないけど、なんだかホッとしましたね」
僕にとっても正直な実感だった。それからどうしたのかは全く記憶から抜け落ちている。尾崎の個人事務所「アイソトープ」の副社長に僕が据えた[月刊カドカワ]の契約社員だった鬼頭明嗣と話していないとおかしいのだが(おそらく話したのだろうが)、全く記憶にない。というか須藤君との電話以降の記憶が全くないのだ。
金の算段をし、人を集め、不動産屋を回り、代々木八幡に尾崎豊の個人事務所アイソトープを設立して1年半。地獄の日々があっけなく終わった瞬間だった。
あれから28回目の4月25日。地獄の日々。今日もあの日のように爽やかに晴れている。