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見城徹

[読書という荒野] 文庫版のためのあとがき 2020年12月29日に僕は70歳、つまり古稀を迎える。 70歳でいるうちに、実現したいことが二つあった。 一つは幻冬舎グループの大きな資本の組み換えと、もう一つはボクシングのリングに立つことだった。 前者は2019年12月3日にすべての手続きが完了し、ボクシングのトレーニングは2019年7月から開始した。 大学時代、元・世界ライトヘビー級チャンピオン、ホセ・トーレスの「カシアス・クレイ」を読んで以来、僕はずっとボクシングに魅せられ続けていた(P75〜参照)。高校時代に石原慎太郎の「太陽の季節」を読んで異様な衝撃を受けたのも、主人公の竜哉が高校のボクシング部であったことが関係していると思う。 石原慎太郎が言うところの[社会的現実]に[個人的現実]がクラッシュする瞬間を「太陽の季節」は見事に描き切っていた。後から考えると、それこそがボクシングそのものなのだ。 1974年10月30日、ザイール共和国の首都キンシャサで行われたプロボクシング世界ヘビー級タイトルマッチ。王者ジョージ・フォアマンと挑戦者モハメド・アリ(旧名カシアス・クレイ)戦をテレビで観てからはボクシングへの想いに拍車がかかった。試合は第8Rまでサンドバックのようにフォアマンに打たれ続けたモハメド・アリが8R残り16秒で奇跡の逆転KO勝ちを収めるという劇的な幕切れとなる。 ベトナム戦争への徴兵拒否が原因で王座を剥奪され、3年7ヶ月のブランクを余儀なくされた下り坂の32歳のモハメド・アリと40戦無敗(37KO)[象をも倒す]と言われたヘビー級史上最強パンチャー、25歳のジョージ・フォアマンとの戦いはボクシングが高度な精神的スポーツであることを如実に証明していた。生きるとは恐怖と不安を克服する戦いなのだ。だから、ボクシングの試合は人生そのものと言っていい。 アーネスト・ヘミングウェイ、ノーマン・メイラー、ジョイス・キャロル・オーツを始めボクシングについて書く作家は多い。日本でも寺山修司、沢木耕太郎を始め多くの作家がボクシングとボクサーを描いている。「カシアス・クレイ」を読んだ時の感動を実践に移さなければ死ぬ時に後悔が残る。50年近くの時を経て、僕はボクシングに取り組むことを決めたのだ。ボクシングのリングに上がって戦うこと。読書から行き着いた荒野。この文庫本の表紙をボクシングの写真にしたのはそういう訳がある。

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見城徹のトーク
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  • 見城徹
    見城徹見城徹

    ↑ 丁度28年前に尾崎豊が逝った。1992年の4月25日もよく晴れた日だった。朝から外出して昼頃自宅に戻り、留守番電話のスイッチを起動した。当時は携帯電話はまだなかった。留守電の最初が尾崎の音楽プロデューサーのソニーミュージックの須藤晃君で「尾崎が亡くなりました」から始まっていた。その後は僕のコメントが欲しい物凄い数のメディアからの連絡が入っていた。留守電を聴くのを途中でやめて、須藤君に電話した。ダイヤルを押しながら外を眺めたのだろう。眩くて爽やかな4月末の光が不自然で、その日差しだけを強烈に覚えている。
    最後に須藤君が言った。
    「見城さんと僕にしか解らないけど、なんだかホッとしましたね」
    僕にとっても正直な実感だった。それからどうしたのかは全く記憶から抜け落ちている。尾崎の個人事務所「アイソトープ」の副社長に僕が据えた[月刊カドカワ]の契約社員だった鬼頭明嗣と話していないとおかしいのだが(おそらく話したのだろうが)、全く記憶にない。というか須藤君との電話以降の記憶が全くないのだ。
    金の算段をし、人を集め、不動産屋を回り、代々木八幡に尾崎豊の個人事務所アイソトープを設立して1年半。地獄の日々があっけなく終わった瞬間だった。
    あれから28回目の4月25日。地獄の日々。今日もあの日のように爽やかに晴れている。

  • 見城徹
    すぬたろう♀すぬたろう♀

    尾崎のこと知らん人が「ホッとしましたね」なんて聞くと酷いと思うかもしれませんが、無理難題ばかり見城さんに要求してたのです。

    しかし、見城さんはネットに載せる短文まで気を抜かないのですね。最後までキレイにまとまっています。見城さんご自身が作家になれば?と思いますが今はまだ編集の仕事がお好きなんでしょう。

  • 見城徹
    見城徹見城徹

    ↑ 初めて言いますが、「僕らも辛かったけど尾崎はもっと辛かった。だから、尾崎自身もホッとしたんじゃないか」とあの瞬間感じたんです。尾崎はあれ以上生きられなかった。あれ以上は辛過ぎた。あれが限界だった。つまり、あれが寿命だった。尾崎豊は尾崎豊の生を全うした。今でもそう思います。
    こんな風に言うのは不謹慎ですかね。

  • 見城徹
    削除されたユーザー削除されたユーザー

     福岡から出て、松戸に住み始めた頃、朝はヘヴィメタルを聴いて出かけ、夕方や夜帰宅する時は、よく尾崎を聴いた。
     小高い丘の上にあった壁に隙間のあるボロアパートを根城に、東京の街を歩き回って、帰宅する時、坂の上に大きな夕日が見えることがあって、その時に『坂の下に見えたあの街に』を聴くと郷愁に締め付けられてなきそうになった。
     新宿のションベン横丁で仲間と飲んだ帰り、常磐線から見た街明かりに『ドーナツショップ』『誰かのクラクション』が良く似合ってた。慣れない都会に翻弄される僕にとって、尾崎の曲は欠くことできない日常としてそこにあった。

  • 見城徹
    見城徹見城徹

    ↑ 尾崎の死後20年以上、僕は尾崎豊の歌を聴けませんでした。カラオケで誰かが尾崎の歌を歌う時は終わるまでトイレに行く振りをして部屋を出ていました。最近やっと尾崎の歌を聴き、尾崎の歌を歌えるようになりました。

  • 見城徹
    GreenjaysGreenjays

    ↑尾崎さん自身が重荷から解放された事を思い労われ「ほっとしたね」とお二人で話されたのかと理解させて頂きました。

    20年間、歌すらも聴けずにいた痛みがどれだけのものか想像を絶します。それほどの痛みも時が癒してくれるものなのでしょうか。

    あの日も爽やかに晴れていたんですね。改めてご冥福をお祈りいたします。

  • 見城徹
    見城徹見城徹

    ↑ 優しい言葉を有難う。しかし、違うんです。ここは正確に言わねばならない。僕は尾崎豊から解放されたかった。地獄の道行きはもう沢山だ。尾崎がいなければどんなにか楽だろう。毎日、七転八倒しながらそう考えました。僕が死んでもおかしくない。そんな日々でした。だから、自分のためにホッとしたんです。
    しかし、28年経ってこう思います。
    生きている限り毎日は地獄だ。それが当たり前だと思って生きるしかない。地獄を引き受ける。忍びて終わり悔いなし。I Will Go to War!
    哀号。押忍!

  • 見城徹
    三上雅博三上雅博


    おはようございます。
    2020年4月の親父の投稿のリトークです。
    他の方の投稿も一緒にリトークさせて頂きました。

    僕の青春のバイブル。尾崎豊。
    中学校の卒業アルバムに「卒業」の詩を書きました。

    あと何度自分自身卒業すれば
    本当の自分にたどりつけるだろう
    仕組まれた自由に誰も気づかずに
    足掻いた日々も終わる
    この支配からの卒業

    僕は尾崎豊も坂本龍一も、吉本隆明の事も羨ましい。その死後も自ら命を捧げた作品は永遠に残り続けるのだから。
    僕が死んでも何も残らない。ただ終わりが来るだけだ。それでもやるしかない。
    忍びて終わり悔いなし。

    本日も皆様、宜しくお願い致します。