柴田 新介柴田 新介 昨日、一気に読んでしまいました。
読む事を止める事ができませんでした。
ずっと涙が止まりませんでした。
名前は存じていましたが、これ程熱い魂を注がれていた方とは、思いませんでした。
見城さんをはじめ、西山さんや、近藤さん、名だたる第一線で活躍されている方が、松村さんをとても愛していることや、息遣いがすぐそこに聴こえるようでした。
「熱狂宣言」は命の証…
僕は本に出てくる方々が過ごす、命を削るような1日に、思いを重ねると、如何に自分がぬるま湯で安全圏から、モノを言っているかを痛感します。
この本には、松村さんを取り巻く方々の愛がギッシリと詰まっていて、こちらも熱を発せずにはいられません。随所に出てくる「熱狂」や「ジャンプ」はまさに言葉通りのものなんだと、感じました。
この本をご紹介くださりありがとうございます。友人、知人にも是非すすめます!
この本を読んだ後、無性に行きたくなった店は
「桂浜」
でした。少しでも、土佐の風を感じたいと思います。
最高の本をありがとうございます!
見城さんのリトーク
トーク情報ぴく ぴく 見城徹見城徹 森原森原と申します。 ご質問があります。 『僕はきっと絶望して死ぬだろう。死ぬとはそういうことなのだ。しかし、絶望しきるために熱狂して生きなければ人生に何の意味があるだろうか。』 ↑ 見城さんの言葉で唯一理解出来ません。ステージが違う事で理解出来ないのでしょうが…死ぬ時には『我人生後悔なし』と思いたいです。 先生に聞いてみたいのと、見城さんには本質的な意味を解説していただけたら幸いです。[絶望しきる]という言葉はご承知かと思いますが、アンドレ!・ジッドの[地の糧]の一節です。人はどんなに熱狂して生きていても、「死」という現実に否応なく「生」を中断されます。
諦めて、投げ出してしまっている人には後悔は少ないでしょうが、最期まで熱狂して生きようとした人には絶望は深くなります。つまり、「熱狂」と「絶望」は死の瞬間、セットになるのです。僕はそう考えています。
ですから、死の瞬間、[絶望しきる]ほど、熱狂して生きたいのです。中途半端な熱狂は中途半端な絶望しかもたらさないのです。
ジッドの[地の糧]の一節を掲げておきます。
平和な日を送るよりは、悲痛な日を送ることだ。私は死の睡り以外の休息を願わない。私の一生に満たし得なかったあらゆる欲望、あらゆる力が私の死後まで生き残って私を苦しめはしないかと思うと慄然とする。私は心中で待ち望んだものことごとくこの世で表現した上で、満足して--或いは全く絶望しきって死にたいものだ