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人は規律訓練(フーコーの概念)をもとめる。なぜか。認知エネルギーが溢れてどうしたらいいかわからないような状態は不快であって、そこに制約をかけて自分を安定させることに快があるからです。しかし一方では、ルールから外れてエネルギーを爆発させたいときもある。
たとえば暴走族はルールを破って駆け回るわけです。ところが、暴走族には厳しい上下関係があったりします。ですから、エネルギーを解放する方向とエネルギーを制限し有限化する方向の両方が見られるわけです。これは人間のあらゆる組織的活動に言えることで、また個人の生活を律するときでもそうです。
ここで「儀礼」というキーワードを出したいと思います。あるいは「儀式」でもよいですが、儀礼の方がより抽象的ですね。ルーティンというのは儀礼です。なんでそんなことをやっているのかその根本の理由が説明できない、たんにドグマ(融通の利かない、いかなる批判も許さない決めつけみたいなもの)的でしかないような一連の行為や言葉のセットのことです。
人間は過剰な存在であり、逸脱へと向かう衝動もあるのだけれど、儀礼的に自分を有限化することで安心して快を得ているという二重性がある。そのジレンマがまさに人間的ドラマだということになるわけです。どんなことでもエネルギーの解放と有限化の二重のプロセスが起きている儀礼である、という見方をすることで、ファッションでも芸能でも政治でも、いろんなことがメタに分析できるようになります(こうした見方は文化人類学的なものであると言えるでしょう)。そして、儀礼とは去勢の反復だと言えます。
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